『今日の士郎』刊行に寄せて

agatsuma

アニメは立派な文芸作品。荷物の詰め物に使われていた浮世絵だが、今では世界に誇れる日本の文化だ。アニメもそのうち大学図書館に所蔵されるべきものになるだろう。では、時代に耐えうる良質な作品とはいかなるものなのか。『美味しんぼ』のテーマは、良質の料理の素材と調理方法にかかわる歪んだ常識や知識の浅薄さを暴きながら「究極のメニュー」を探しまわるところにある。しかし、単純な料理本ではなく、内容と展開は複線的であり重層で、そのミルフィーユが良質で複雑な味を醸し出している。

全体を貫く太い筋は、山岡士郎と海原雄山の激しい確執。父親と息子の確執は、安定した親密圏として喧伝される美しき家族像に真正面から挑戦して、家族観の虚構性を暴露する。実は、程度の差はあれ、その確執の存在の方が、現代社会では、現実的で一般的だ。

青春期の若者は、どこでも父親の無理解に苦悶し格闘する。映画『男はつらいよ』一作でのさくらと博の結婚式。高校中退で家族と断絶した過去をもつ博の前で、結婚式での二十二秒という異例の沈黙を演じる父親志村喬の演技は、語れないことで親子の確執の溝の深さを示す名場面だ。

だが、『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山の確執は、露骨で暴力的で大げさ。しかも両者の性格はともに屈折している。士郎は、憎むべき雄山に鍛えられ仕込まれた知識とスキルを捨て、父親とは別の生き方をする道もあったのだろうが、皮肉なことに、父親に鍛えられた感性とスキルで憎むべき父親と同じ土俵で対決することになる。いや、だからこそ競馬好きなグータラサラリーマンで生きてこられた士郎を父親と対決させるために、「究極のメニューづくり」が必要だった。

世阿弥の『風姿花伝』は、「芸も人なり」という。芸と人としての品格は裏表一体で、芸には人格が現れ、人格にも芸風が滲むものであるということだ。このことはすぐれた芸術作品と作者の人間性は相関するのか、はたまた作品は作品、人格は人格と区別されて評価できるものかという難問を古来から突き付けてきた。海原雄山の家庭経営・子育て観をいかに評価すべきか。それは、厳しいがすぐれた職人的指導観だったのか、はたまたハラスメント男の家族虐待だったのかだ。

次に、食うために会社に時間と労働力を売らねばならない人間。それに抗う生き方は会社組織の中でいかに可能なのかという難問。それは、効率性と利潤追求のために「勤勉」に働くことで奪われている豊かな人間性と感性が回復される可能性はどこにあるのかだ。士郎は、資本主義的なルールや社会道徳的価値観への反抗者だが、同時にしがないサラリーマンでもある。士郎は、組織のルールや社会常識にあらがって傍若無人な行動をとってはいるが、ネクタイとスーツは手放さない。そこが会社人間と自然人とのギリギリの境目だ。

リアルな作品は、当時の世相を映し出す。栗田の推しは「ひがし」。これは少年隊の東山紀之。ジャニーズ騒動で新規に立ち上がった会社の社長になった。文化部に女性が四人しかいないのも、男女雇用均等法が制定(一九八五年)されて間がない時代だからだろう。割烹屋での宴会。畳の大広間。お膳の前に胡坐をかいて肘掛けを使う殿様スタイル。今の若い人たちには遠い世界だろう。

東西新聞社には、エレベーターが設置されていない。外観からすると七階建てなのに。だから、士郎を探しまわる栗田は、階段の踊り場で花村とぶつかってしまう。当時の公団住宅には、高層でもエレベーターなんか設置されていなかった。職場の机には、緑色のデスクマットが敷かれ、多分その上には透明なビニールが敷いてあったに違いない。大事な名刺、内線番号表、ちょっとしたメモ、そしてこどもの写真なんぞをはさんでおくためだ。パソコンが導入される前の古き良き時代の職場風景。煙草をくゆらせながら仕事するのは当たり前。灰皿は必需品だった。後半に出てくる列車の旅の場面には窓の下に灰皿が設置されている。一見しただけでは、蓋が付いているスマホやノートパソコンのACコンセントに見えるのだが。銀座の交差点歩道には、信号待ちのタバコ吸いのために、灰皿スタンドが設置してあった(第一巻「豆腐と水」四頁)。リアルに描くというのはそんな歴史を正確に記録する。

押し合いへし合いの満員電車の中でも、サラリーマンは折りたたんだ新聞に目を通しておくのが常識だった。「邪魔だ、新聞を引っ込めろ」と文句を言う人などいなかった。電車の中で立ったまま読める半裁サイズでサラリーマンに人気だった『夕刊フジ』がつい先ごろ休刊になった。残念なことだ。士郎は、会社のソファーで寝ているが、別に驚くことではない。かつての会社では、決して珍しい風景ではなかった。士郎の勤める会社が新聞社であればなおさらだ。国鉄がストライキを打つという前夜には男性社員は会社に泊まり込まされたもんだ。夜の廊下での麻雀大会、宿直室での飲み会。こうしたムダが働く者同士の親睦と信頼関係を築く大きな要素だった。つまり、企業ルールギリギリのところで人間関係をやわらかく形成するスキマが存在した。会社のソファーで寝たり業務時間中に外出して馬券を買ったりすることはいくらでもありえた。営業活動中に喫茶店に入り浸って甲子園の高校野球や大相撲中継を観戦するなんぞは当たり前だった。大組織の中でグータラしながらも馘切られないようにふるまい、給料だけは確保するのが当時の平均的サラリーマンの望む姿だ。士郎が特別な存在ではない。「オーラスで俺が親だったんだー、それがさァ…」は、麻雀用語。昨晩も部長を交えた麻雀大会だったのだろう。二日酔いだってとにかく出社することが重要だった。実に人間臭い関係性と寛容さが存在した時代だ。だから、二十二巻「韓国食試合Ⅰ」で、二日酔いに効く料理がテーマになるし、編集長までが二日酔いの姿に、韓国の記者は、「本当に日本の新聞社はいいですなあ」とつぶやくことになる。傍若無人の士郎とて、ネクタイだけは外さないところが面白い。しかも、社主の前でもネクタイは緩めたままだ。そこが自由人と会社人間のきわどい境目だ。ネクタイは、サラリーマンの首輪みたいなものだった。

もう一つの太い筋は、男と女のストーリー。この筋立てのうまさが読者の関心を最後まで引っ張る。何組ものペアが織りなす男と女の物語が、話の背景に彩りを加える。一話完結なのに、いろいろな話に登場する個性的なキャラがあちこちで絡み合い、ついには大きな物語となっていく構成が、読者の関心を最後まで引っ張る。若い社員から嫌われる職場の忘年会・新年会や慰安旅行、会社運動会がなくなった現代。出会いの場がマッチング・アプリの世界に移行してしまい、職場での同僚に囲まれた冷やかしや応援・励ましの中で温めあう恋愛関係は成立しにくくなっている。下手に口出ししたり冷やかしたりしようもんならハラスメント扱いされかねないのが現代だ。

読者の中には、漫画本とアニメ版の相違点や食材について様々な見方があるだろう。アニメで政治的にきわどいテーマを扱うことへの賛否もあるかもしれない。が、もろ政治的で暴力的な『ゴルゴ13』で、世界情勢や裏社会の闇を学べたことを思い出す。小林よしのりはいささかどぎついが…、『美味しんぼ』なんかかわいいもんだ。政治的メッセージが込められているアニメは、ミルフィーユの味を一層濃いものにもする。自然環境破壊、資本主義的な儲け主義による味文化の破壊、消費社会に飲み込まれる大衆、そして、人間が長い歴史の中で探り作り上げてきた素朴だが味わいのある食べ物文化を残し伝えたいという熱望。手元の小さな幸せが世界のどんな闇とつながっているのかは、資本主義経済の仕組みや人間の欲望を巧みに操作する社会の「見えざる手」の中にある。

自分たちが木に登ってもいでいるカカオが何になるかもわからない過酷な児童労働とチョコレート製造・販売企業の正体を知らないまま、バレンタインに一喜一憂している若者たちのおめでたさを面白く眺めるだけでいいのだろうか。

そうなんだ。知らないことは、幸せなんだ。

文章:πのπのπ@マゼラン星雲